歴史
戦前 - 大阪野村銀行としてスタート 元来小規模な両替店から証券業務に参入し、日露戦争、第一次世界大戦の好景気において兼業の株式仲買業で財を成した野村商店(現在のコスモ証券)を営業していた野村徳七(2代目)は、念願の商業銀行設立に動く。そして、1918年6月、資本金1000万円の株式会社大阪野村銀行として創立され、同年8月に開業した。 こうして誕生した大阪野村銀行は、発足後間もなく第一次世界大戦後の反動不況、さらに関東大震災に遭遇したが、着実な経営姿勢の堅持によりかえって信用を高め、次の発展の基盤を固めた。その間、証券金融の活性化を主眼とし、担保付社債信託業の兼営と公社債専門の証券部門の設置を行って、次第に証券銀行(投資銀行)としての色彩を強めて行く。また、1925年8月に安藤銀行、1926年11月に福陵銀行、1927年9月に森岡銀行を買収併合した。 やがて、証券部門が急成長し、1925年12月には証券部を野村證券株式会社として分離する。また、店舗網の全国的な拡大に対応して、1927年1月、大阪野村銀行は野村銀行と名を改め、野村財閥の中核として純然たる商業銀行への道を歩む事となる。この年から深刻な昭和金融恐慌が進行し、多くの名門銀行が姿を消す中で、1927年12月と1928年5月に淡河銀行、1928年9月に藤田銀行、1929年5月に加島銀行の各営業権の一部を譲り受け、業容を拡大、十五大財閥の1つに発展していく。 金融恐慌後の1929年に、野村銀行は大阪府本金庫事務を受託した。これは業務の非効率性から受託に消極的な銀行が多かったなかで、野村徳七が金庫事務の公共性と銀行の信用力の増大に着目したもので、大和銀行-現りそな銀行は現在も単独で大阪府指定金融機関の役割を果たしている。 金融恐慌を契機に急激に高まった銀行の合同整理の中で、1933年には大阪では他の有力3行の合同で三和銀行が発足したが、野村銀行自体は自主独往の路線を堅持し、1944年8月、野村信託株式会社を合併して第1号の信託併営行となった。
戦後 - 財閥解体と大和銀行へ
戦後、財閥解体で野村財閥は1946年12月7日 に第2次指定を受け解散。また野村銀行自体も、行名変更を余儀なくされた。財閥解体の進行に伴い、制限会社に対する特別措置の中に財閥名の払拭も含まれていたためである。変更名では、第1案として地名の「大阪銀行」と改称し地元金融機関として生きる道を考えたが、先に住友銀行の案と競合したため、次善策として第2案の「大和銀行」に落ち着くことになった。「大和」の由来は、財閥解体下における新体制での「大いなる和」と、野村財閥の商標である「山にト」(=やまと)を掛け合わせた物であり、また「大和」の「大」は「大阪」をも意味した(現在の野村證券(野村グループ)の社章はこの「山にト」をモチーフにしたものである。当然ながら大和証券とは全く関係がない)。これは行員から案を募ったもので、大和銀行行史では「文字として平明であり、『だいわ』と読む語呂のおだやかさが親しみを感じさせ、役職員に愛着を深め、またその意味は聖徳太子の憲法『和を貴ぶ』の精神から来ている」と説明されている。行名変更は、奇しくも創業30周年にあたる1948年10月となり、株式会社大和銀行として再発足した。
1949年11月、甲種外国為替銀行の認可を得、銀行・信託・外国為替を3本の桂とする総合金融機関の体制を実現した。
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