託併営と国際化
昭和30年代に入り、信託の専業主義の考え方による大蔵省の信託分離の勧めにもかかわらず、大和銀行は信託併営を維持した。これは、当時の頭取寺尾威夫が「信託併営は、金融機関の大衆化、機能の総合化にマッチし、顧客に幅広いサービスが提供できるため時代の要請に合致している」と強硬に主張し信託分離化も頑なに拒み、また、関西財界の支持を受けた事も追い風となった。結果、都市銀行の中で唯一信託兼営を守り通したが、これが為に大蔵省から睨まれ、「他都銀と同じスタートラインにない」として、新規出店で認可を出し渋るなど、不利な扱いを受けたとも言われている。1962年4月には、企業年金制度(正確には適格退職年金制度)が発足したが、大和銀行は直ちにこの取扱いを開始し、同年8月には年金信託部が設置され、以後、一貫して信託業界首位の座を堅持することになる。
貿易・資本の自由化が推進され、日本経済の国際化が進捗する中、国際業務では1956年にニューヨーク、1958年にはロンドンと、国際金融の2大中心地に相次いで駐在員事務所を設置した。1988年にレイニア・インターナショナル銀行香港地区9店の営業権を譲り受け、当時、在香邦銀最大規模の店舗(10店)を展開、また、1990年には、イギリス・ロイズ銀行のアメリカ拠点を買収し、こちらも、当時、在米邦銀最大規模の店舗(17店)を有し、最盛期には大和銀行の純利益3割を稼ぎ出すにいたる。
機械化、事務効率化の面では、1972年8月、キャッシュディスペンサー(CD、現金自動支払機)1号機を設置し、また、1973年8月には第1次オンラインシステムが完成した。これが、大和銀行におけるエレクトロニックバンキングの幕開けとなった。このオンラインシステムは、1981年の第2次オンラインシステムを経て、1993年に新オンラインシステム・ニュートンに移行した。
創立50周年に当たる1968年9月には総資金量1兆2,000億円を超し、3年後の1971年末には2兆円の大台を突破するに至った。
ユニバーサルバンキングへ
1988年4月、創業70周年を機にヴィジュアルアイデンティティ(VI)開発を実施した。激化する金融機関の競争、金融の自由化、国際化の進展などに積極的に対応する姿勢を明確にイメージづけるために実施した。りそな銀行に統合された後も、このVIは同じりそなグループの近畿大阪銀行で近年まで使用されていた。
1991年には新本店ビルが竣工し、旧本店ビルとその周辺に分散していた本部機能を集約し、情報機能の一元化と生産性の向上を図った。1994年3月には、大手町金融街で一番の高さを誇る東京本部ビルが竣工した。リテール分野では、通帳などに使用するキャラクターに原田治、円谷プロダクション(ウルトラマンキッズ)、アランジアロンゾを起用し親しまれた。
1993年9月には、顧客に利回り保証を行う「飛ばし」事件で経営危機(債務超過)に陥った関係会社のコスモ証券を救済するため、第三者割当増資を引き受け、証券子会社とした。この結果、大和銀行は、銀行・信託・証券の一体経営を行うことになり、国内初の「ユニバーサル・バンキング」を実現した。
1960年代から、各都市銀行が企業グループを形成する動きの中で、大和銀行も第一銀行(現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行)の「第一原子力グループ」に参加していたが、1987年、関西地方に地盤のある企業40社が、「国際花と緑の博覧会」への参加を目的に集合、これが「大輪会」へと発展し、大和銀行はその中核銀行に収まった。しかし、バブル崩壊後は、次第に他の都市銀行とは志向を異にして、地元・大阪に密着した地域密着路線を推進するようになっていく。